Lesson6-3 徳川将軍家と和菓子

Lesson6最後のページでは、徳川将軍家と和菓子の繋がりを見ながら、
その歴史について学んでいきたいと思います。

和菓子が登場する場面を思い浮かべながら、歴史の動きも楽しんで学んでいきましょう。

徳川家康と嘉定菓子

6月16日が和菓子の日に制定されているのをご存じですか。

旧暦6月16日に行われていた『嘉定』という行事にちなみ、1979年に全国和菓子協会により制定されました。

嘉定とは、どのような行事でしょうか。

嘉定、または嘉祥と書き、菓子を食べて厄除けし、幸せを願うという行事です

その由来は、古くは平安時代の仁明天皇の改号によるものといわれることもあります。
諸説ありますが、室町時代にはすでに朝廷や武家で行われていた記録が残っており、江戸時代に最盛期を迎えたと考えられています。

この嘉定の行事をとても大切にしていたと伝えられているのが、江戸幕府初代将軍の徳川家康です。

徳川家康が、武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」を前に、戦勝祈願に訪れた際、祈願場で当時の宋銭「嘉定通宝」を拾ったそうです。
この読み方が「勝つ(嘉・通)」に通じることから、昔から武士にとって縁起の良いものとされていました。
そのため、家康はこれを拾ったことを大変喜んだといいます。

この時、のちに幕府の菓子御用となる大久保主水(おおくぼもんと)が徳川家康に差し入れたものが『饅頭・羊羹・鶉焼・寄水・金飩・阿古屋』でした。
これを、家康が家臣たちに配り、慣例になっていったようです。


ちなみに、 三方ヶ原の戦い は、徳川家康が負けてしまいました。
しかしその後は無敗で、この戦いが様々な教訓を教えてくれたということで
それを忘れないために、という意味付けもあったのでしょうか。
明治時代に廃れてしまうまで、長い間ずっと執り行われてきました。

この嘉定の日、江戸城には徳川御三家を除くほぼ全ての大名たちが集まります。
江戸城の大広間は五百畳の広さがあったそうですが、そこに二万個を超える菓子が用意されたのです。

これを一人一人、将軍から手渡しされるというのですから、それは大変盛大な行事であったことでしょう。

この将軍から賜った嘉定菓子を、地方の大名たちは持ち帰り、さらに地元の家臣などに分けて配りました。
それにより、江戸のお菓子は全国に広がっていったのだと考えられます。

苦労人で真面目な家康が、自らの戒めの為に始めたこの行事は、
和菓子の世界を広げたといってもよいかもしれません。

徳川吉宗と桜餅

暴れん坊将軍として知られる、江戸幕府8代目将軍の徳川吉宗は、和菓子とも深い関りがあります。

様々な改革などを行った吉宗は、庶民が憩える場も造りました。
その一つが、向島の川堤の桜並木です。

吉宗といえば享保の改革が有名ですが、この改革では豪奢な遊びを牽制するものの、
国民の心身の健康を考え、このような場を造りました。
今でも植樹を繰り返し、その景観が保たれている桜並木は、当時隅田川沿いに100本、飛鳥山に1270本ほど植えられたと伝えられています。
それまで、貴族の豪華な娯楽だった花見を、庶民も楽しめる季節の行事にしたのは吉宗と言っても過言でもありません。

そんな桜並木近くにある長命寺の門番が、落ち葉を掃除中に、このたくさんある桜の葉を何かに使えないかと考えました。

その桜の葉を塩漬けにし、餡を包んだ餅に巻いて売り出したものが桜餅の始まりと伝えられています。
当時の様子を伝える文献から、人々の間でとても人気が高かったことが伺えます。

この桜餅の売り上げが、桜並木を維持するための膨大な管理費に充てられたと言われています。
このことからも、この桜餅の安定した人気が感じられます。

このように、桜餅の人気の基礎を築いた彼自身は、実は静岡市を流れる安倍川の近辺の茶屋で作られていた安倍川餅が大好物だったことで有名です。

紀州藩主だった吉宗が、参勤交代などで東海道を通った際に食べたのでしょうか。
大変気に入った様子だったそうです。

改革もあり、自分自身も質素倹約、一日二食、一汁三菜を守った吉宗ですが、
駿河国出身の家臣がこだわりの材料で作った安倍川餅を食べる時は、束の間の贅沢として、その時間を味わったことでしょう。

また吉宗は、それまで輸入に頼っていた砂糖の国産化にも尽力したことでも知られています。

このように、江戸時代に大成した和菓子の大きな礎を築いた徳川吉宗は、
和菓子の世界でも、大きな功績を残したといえるでしょう。