今回のページでは、戦国武将と和菓子の物語についていくつか解説します。
歴史的な物語の中にも和菓子が所々登場しますので、楽しく学んでいきましょう。
織田信長と金平糖
戦国時代の風雲児として知られる織田信長は、南蛮物好みであったことで当時から有名でした。
鉄砲を戦術に取り入れるなど、外来の文化も柔軟に受け入れていた様子が伺えます。
そんな信長と和菓子にまつわる話を解説します。
Lesson1でも学びましたが、ポルトガル人やスペイン人が伝えた南蛮菓子は、日本の菓子の歴史にも大きな影響を与えました。
江戸時代に砂糖の国産化が始まるまで、輸入に頼っていた砂糖は大変な高級品で貴重なものでした。
そのため、砂糖を多く使った南蛮菓子に、当時の日本人はとても驚いたことが推察されます。
この貴重な砂糖は、布教活動の許可を得るために贈り物として使われることもありました。
その贈り物を受け取った人物の一人が、織田信長だったのです。

コロコロと小さく可愛い星のような形をした砂糖菓子の金平糖は、南蛮菓子の一つです。
宣教師のルイス・フロイスは布教活動の許可を得ようと、京都を訪れます。
その時、まだ建設中であった足利義昭の二条邸で織田信長と会いました。
その時、フラスコに入れた金平糖を織田信長に献上したのです。
まさに、時の権力者に贈るにふさわしい価値ある品でした。
ちなみに、ポルトガルで砂糖菓子というと、ドラジェのような、角がなく糖衣で覆われたつるんとした菓子を指します。
そのため当時の金平糖は、今のように角が立ってなかったと考えられています。
現在日本で作られている角が立った愛らしい形の金平糖は、約2週間かけて、ゆっくり丁寧に角を作っていきます。対してポルトガルでは、4~5日程度で完成させるとされ、製作時間が全く異なるのです。
今日の金平糖の可愛らしい形は、日本人の創意工夫と、高い技術力によるところが大きいのです。
信長と南蛮菓子について伝わる話は、他にもあります。
天正9年、信長は盟友だった徳川家康を安土城に招いて、日頃の労を労うもてなしをしました。
その際にふるまったとされる献立の中に、『有平糖』の記載が見られます。
この有平糖は、昔は饗応菓子として、天皇をもてなした際の献立にもその名が残っています。

この信長にまつわる出来事と結び付けて大人気となったといわれる和菓子があります。
それは、今川焼です。
今川焼といえば東京の名物として有名で、江戸時代に神田堀の今川橋の近くで売られていたため、その名がついたといわれています。
その時、織田信長と今川義元の桶狭間の戦いを用いて、「忽ち焼ける今川焼」と謳ったところ、たちまち大人気となったそうです。
このことからも、当時から織田信長のカリスマ性を感じることができますね。

豊臣秀吉と大仏餅
織田信長亡きあと、明智光秀を倒し天下統一を果たした豊臣秀吉には、関わりの深い和菓子が多くあります。
日本を統一した秀吉は、自らの力を示すため、現在の京都市東区にある方広寺に、
約19メートルにもなる大きな大仏を造りました。
それにちなみ、門前で売り出されていた餅が『大仏餅』です。
のちに、大仏餅屋は方広寺から誓願寺の門前に移ったのですが、
江戸時代でも変わらず京名物として繫昌しました。
また、この大仏餅が江戸・浅草でも売られ人気を博していたとされる記載が、
滝沢馬琴の記録にも残ります。
その他、秀吉が命名したとされる和菓子の数々をみていきましょう。
春を告げる和菓子の一つ鶯餅は、粒餡を餅で包み、青きな粉をまぶした和菓子です。
この鶯餅という名を命名したのが秀吉だと伝えられています。
まだ名前がなかったその餅菓子を献上した奈良にある和菓子屋の伝承によると、鶯餅と命名された後、お店のあった場所にちなんで『御城之口餅』と呼ばれるようになり、今もなお親しまれているようです。

菅原道真公をお祀りしている北野天満宮で、粟餅と並んで名物となっている門前菓子に、長五郎餅があります。
これも、秀吉によって命名されたと伝えられています。
北野天満宮で開かれた茶会に献上された餅を大変気に入った秀吉は、作った人の名前をとり、長五郎餅とつけたようです。
この長五郎餅は、北野天満宮の縁日の日に境内で売ることを許された唯一の菓子といわれています。
秀吉に由来する和菓子
秀吉に由来のある菓子はまだまだあります。
伊勢神宮参拝者のお腹と心を満たしている名物、太閤出世餅です。
たっぷりの粒餡が入った平たい焼き餅は、秀吉の幼いころからの大好物だったようです。
実は、秀吉は伊勢にもゆかりのある人物でした。
一時期途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮の復活にも関わっており、伊勢を訪れる機会も多かったのでしょう。
秀吉が称賛した餅は、やがて「太閤餅」「出世餅」と呼ばれるようになり、現在では「太閤出世餅」と呼ばれるようになりました。
秀吉の朝鮮出兵に関わる和菓子もあり、それは佐賀に伝わる松露饅頭です。
これは、秀吉が朝鮮出兵の際、高麗から持ち帰った焼き饅頭を元に考案されました。
名前の由来は、当時これを作った主人が、虹の松原に生えているキノコの松露からとったと伝えられています。
さらに、二度目の朝鮮出兵の時に日本に連れてこられた李氏朝鮮の陶工たちが、故郷を偲んで作り奉納したとされているのが高麗餅です。
今は、鹿児島の郷土菓子としても有名です。